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「もうこんなに暗くなつているのにね、何してるんでせう」
この物語の主人公である高間房一の生ひ育つた河原町は非常に風土的色彩の強い町であつた。海抜にしてたかだか千米位の山脈が蜿蜒としてつらなり入り乱れている奥地から、一条の狭いしかし水量の豊富な渓流が曲り曲つたあげく突如として平地に出る。そこで河は始めて空を映して白く広い水面となり、ゆつたりと息づきながら流れるやうに見える。その辺は平地と云つても、直径にして一里足らずの小盆地で、奥地から平凡になだらかに低まつて来た山々は一面の雑木山で、盆地の端に立つと向ふ側の山も殆ど手の届くやうな感じに近く見える。さういふ平地を河は大きくうねつて、玉砂利の磧かはらがたいへん白く広く見える。芝草の生えた高い土堤がつゞいて、土堤の外側は水害を避けるための低地であるが、しかし不断は畑地になつていて、その又向ふに土堤よりは一段と高く思ひ思ひの様子で築かれた石垣があり、そこに河原町の家々が裏手の土蔵の塀やあるひは小部屋などを見せているのである。そして、古びてはいるが大きい材木を使つた此の家々は一様に外面を白壁でかこんでいる。それは新しくて真白なのもあるが概して風雨にたゝかれたためうす黒い陰影がついて、その適度に古びた白さが、遠くから見る町並の中に点々と浮き上つて、此の河原町を一種親しみ深い快い様子に見せている。又、町の裏手の山腹に一所、ちよつと見は大きい土くづれと思はれるやうな赤土の露出している箇所があつて、その色があまり鮮かなので、白壁の多い町といゝ対照をつくつて、それが又この町を特別美しいものにしている。これは銅山の廃坑であつた。
と、云つた。
「はあ、はあ」
房一はその黒い顔に微笑をうかべながら今泉を見た。
二人はなほ専門的なことを二三話し合つた。それから、どちらからともなく自転車に乗つた。ペタルに足をかけるときに、突然、練吉は心に浮かんだことを押へかねて、叫んだ。
結婚してもう三四年になるが、いまだに出たり入つたりを繰り返している茂子は、練吉にとつては三度目の妻だつた。最初のは男の子を一人のこして去つた。二度目は半年もたゝないうちに大石の方から帰した。今度の茂子の場合だつて、当人も居辛からうが、大石の側でも面白くはない、どうでもいゝと云つた調子であつた。そして、ふしぎなことにはかういふ態度は大石の正文老夫婦から出ているので、練吉の方は吾不関焉われくわんせずえんといつた風があることだつた。
房一は急いで膿盆をひきよせた。
「へーえ」
これはすばらしい銅板画のモテイイフである。黙々とした茅屋ぼうおくの黒い影。銀色に浮かび出ている竹藪の闇。それだけ。わけもなく簡単な黒と白のイメイジである。しかしなんという言いあらわしがたい感情に包まれた風景か。その銅板画にはここに人が棲んでいる。戸を鎖し眠りに入っている。星空の下に、闇黒のなかに。彼らはなにも知らない。この星空も、この闇黒も。虚無から彼らを衛まもっているのは家である。その忍苦の表情を見よ。彼は虚無に対抗している。重圧する畏怖いふの下に、黙々と憐れな人間の意図を衛っている。
「さうだ、鍵屋の法事へ行くんでね。さつきは、君にさう云ふのを忘れていたが――まあ、上りたまへ」
こんな風でありながら、盛子は小ざつぱりと身ぎれいで、いつの間にそんな雑用を片づけるのかと思はれるほどだつた。いくらか背高ではあつたが、その身体つきにはふしぎな柔味が感じられた。それは娘の頃のまとまりのない柔さではなく、成熟した靱しなやかな柔味だつた。彼女自身はさういふ結婚後の肉体上の変化に気づかなかつたが、それは無意識のうちに感じている房一との結婚生活の幸福さを意味するものだつた。
「それが、その、来ないわけがあるのさ」